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ホワイトハルク下田雅人特集!
生年月日 | 1975年7月22日(45歳) |
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出身地 | 千葉県四街道市 |
身長 | 171cm(2011年時点) |
体重 | 83kg(2011年時点) |
SNS | Twitter、Facebook、公式サイト、公式YouTube |
ホワイトハルク下田雅人は、日本の有名なボディビルダーです。肩や胸、太ももの筋肉の厚みが素晴らしい筋肉の持ち主であり、日本のボディビル選手権では最高3位という成績を収めています。
ホワイトハルクという名前は、2003年のジャパンオープン大会に出た際、この年の映画で公開されていたハルクに似ていたことと、色が白かったことから名づけられました。
ホワイトハルク下田雅人の生い立ち
ここでは、ホワイトハルク下田雅人の学生時代から現在までの生い立ちを紹介します。
学生時代~アメリカでの生活
ホワイトハルク下田雅人がトレーニングを始めたきっかけは、空手との出会いです。オーストラリアに住む叔父は有名な日本人空手家であり、その影響で高校2年の頃から空手を始めました。22歳の時に空手の千葉県交流試合トーナメントで優勝を果たします。
その後、23歳の時にアメリカのロサンゼルスへ渡り、総合格闘技の修業を行います。そこでは、有名格闘家の須藤元気との出会いもありました。須藤元気からは柔術のクラブへ誘われましたが、柔術の道へは進まず修斗という格闘技を学びます。
しかし、ホワイトハルク下田雅人は二週間後に行われた大会の2ラウンドで敗退し、足を骨折しました。この怪我が原因で日本へ帰国することになります。
ボディビルの道へ
日本へ帰国した後、ホワイトハルク下田雅人は格闘技を続けながらジムのトレーナーをしていました。トレーナーを勤めていたジムで、会員として来ていた有名ボディビルダーの佐藤茂男と出会います。佐藤茂男からボディビルへの道を勧められたことをきっかけに、ボディビル選手を目指すことになります。
ボディビル大会での成績と引退
ホワイトハルク下田雅人は、2001年からボディビルのコンテストへ出場し始めます。しかし、自己流のトレーニングや怪我もあり、思うような結果が出せませんでした。その状況を打破するため、2008年4月に再びアメリカへ渡航します。この時に出会ったのが、ミロス・シャシブ直伝のジャイアントセットでした。
日本に帰国したホワイトハルク下田雅人は、1年間ジムへは行かず、自宅の地下室で自主トレーニングを行います。翌2009年でのボディビル日本選手権では自己最高の成績である3位となり「ジムへ行かなければトレーニングできない」という常識を覆しました。
その後、日本一・世界一という掲げた目標は達成できませんでしたが、2010年、2011年と連続で3位という好成績を収めました。2011年11月に行われたMr.ユニバースの準決勝進出を最後に、現役選手を引退しています。
引退~現在
ホワイトハルク下田雅人は、現役選手を引退後トレーニングやダイエットの指導をメインとして活動し始めます。その後、2013年3月に東京都港区で完全予約制の「ハルクジム」を開業しました。トレーニーだけでなく、トレーナー育成プログラムを設け、正しい知識と技術を持ったトレーナー育成にも尽力します。
2014年11月に千葉の九十九里浜近郊で新しいハルクジムをオープンし、2019年には東金市にもエステサロンを併設したジムをオープンしました。現在は会員への指導やトレーナー育成に注力しています。他にも、雑誌へのインタビューやテレビ出演など、さまざまな場面で活躍中です。
結婚については、具体的な情報はないものの2019年新ジムをオープンした時に妻への言及があります。2007年時点で彼女はおらず、現役時代は一人暮らしをしていたため、少なくとも引退以降に結婚したものと考えられます。
ホワイトハルク下田雅人の筋トレについて
ホワイトハルク下田雅人は、以前まで自己流で筋トレを行っていましたが、2009年にアメリカで学んだジャイアントセットに切り替えます。ジャイアントセットとは、同じ部位のトレーニングを4種以上組み、インターバルなしで次々と種目を行って行くことです。一箇所を集中的に行うため、軽いウエイトでも筋肉の奥まで刺激され、短期間で効果を実感できます。
さらに、ホワイトハルク下田雅人はジャイアントセットを自宅でマシンがなくても筋トレができるようアレンジし、下田式ジャイアントセットというトレーニング方法として確立しました。では、下田式ジャイアントセットの筋トレ内容を見ていきましょう。