遠藤保仁の年俸はいくら!?
プロサッカー選手の遠藤保仁は、1999年U-20、FIFAワールドユース、ナイジェリア大会で準優勝という偉業を成し遂げた時の代表メンバーです。黄金世代と言われた選手たちの中でも主軸を担う選手として注目を集めました。強豪校で知られる鹿児島実業高校出身で、U-16から各年代の日本代表に選出され、日本代表の中心選手として長きにわたり活躍しています。
2002年日本代表国際Aマッチデビュー以後、数々のタイトルや記録を打ち立て、3度のW杯選手に選ばれています。そして41歳となった現在もJリーガーとして現役でプレーし続けているのです。そんな遠藤保仁の年俸はいったいいくらなのでしょうか。デビューから全盛期、そして現在までの遠藤保仁の年俸推移を順を追って、最新情報も含め詳しく解説していきます。
遠藤保仁の年俸推移
プロサッカー選手遠藤保仁は、日本中が注目するW杯の代表に3度も選出されたトップレベルの選手です。強豪鹿児島実業高校卒業と同時にJリーガーとしてプロサッカーチームに加入し、20年以上日本のサッカー界を引っ張り、盛り立てています。そんな遠藤保仁の気になる年俸推移はこちらです。
1998年(横浜フリューゲルス) | 340万円 |
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1999年(京都パープルサンガ) | 800万円 |
2000年(京都パープルサンガ) | 1,200万円 |
2001年(ガンバ大阪) | 3,000万円 |
2002年(ガンバ大阪) | 3,700万円 |
2003年(ガンバ大阪) | 5,200万円 |
2004年(ガンバ大阪) | 5,800万円 |
2005~2006年(ガンバ大阪) | 6,500万円 |
2007年(ガンバ大阪) | 7,500万円 |
2008年(ガンバ大阪) | 8,500万円 |
2009年(ガンバ大阪) | 1億円 |
2010年(ガンバ大阪) | 1億1,000万円 |
2011~2013年(ガンバ大阪) | 1億3,000万円 |
2014年(ガンバ大阪) | 1億5,000万円 |
2015年(ガンバ大阪) | 1億8,000万円 |
2016年(ガンバ大阪) | 1億6,000万円 |
2017年(ガンバ大阪) | 1億5,000万円 |
2018年(ガンバ大阪) | 1億4,500万円 |
2019年(ガンバ大阪) | 1億円 |
2020年(ジュビロ磐田) | 1億円 |
2021年(ジュビロ磐田) | 1億円 |
2022年(ジュビロ磐田) | 8,000万円 |
2023年(ジュビロ磐田) | 8,000万円 |
ここからは、年代と所属チーム、その時々どのようなシーズンだったのか、遠藤保仁の年俸推移とともにその歴史を追っていきます。
1998年18歳で横浜フリューゲルス加入
1998年高校卒業して間もない18歳のルーキー遠藤保仁は、横浜フリューゲルスに加入しました。この頃の年俸は340万円。ファーストゲームから鉄人のにおいを漂わせ、抑揚とテンポの攻撃転調はその頃からの変わらぬ持ち味です。周囲の人は皆、18歳のルーキーに対して「ヤット(遠藤保仁)はすごい!」と口を揃えて褒め、その凄さは次第に日本中に知れ渡ります。
ルーキーデビュー戦から大観衆の中で涼しい顔をしてプレーをしていました。緊張や気負いはなかったのでしょうか。後に本人にデビュー戦の時の心境を尋ねると、日本代表レベルの選手と同じピッチに立って試合出来ることや、花火が上がったり大観衆で凄く華やかな舞台に対して「Jリーグってすごい!」とただただ楽しんでプレーしていたと言います。
遠藤保仁がデビュー当時からプレッシャーを感じることなく楽しんでプレーできたのは、やはり技術がしっかりしていたからです。何気ない感じでプレーしながら一瞬の隙をついて鋭いパスを出します。そして肝っ玉が据わっていて、状況をよく見ていてよくわかっている、それが遠藤保仁の凄さなのです。
1999年 期待が集まった京都パープルサンガ時代
横浜フリューゲルスに入団後1年でクラブが消滅、その後1999年に入団したのが京都パープルサンガです。この頃の年俸は800~1,200万円。同時期にチームに所属していた選手は、キングカズこと三浦知良や朴智星(パク・チソン)です。素晴らしい選手が揃っているにも関わらず勝てずに苦しんだ時代でもあります。
また、この頃遠藤保仁は1999年FIFAワールドユース・ナイジェリア大会で準優勝という快挙を遂げたメンバーでした。大会を終え京都パープルサンガに戻り、低空飛行を続ける不調チームの浮上起爆剤として期待されるようになります。ワールドユース組の、辻本茂輝、手島和希らと共に注目度も増し、周辺環境が劇的に変わった頃でもあるのです。
しかしながら、2000年には京都パープルサンガはJ2へ降格したことを受け、翌年ガンバ大阪へと完全移籍します。そして、その後はガンバ大阪のレジェンドと呼ばれるべく、同チームで20年以上もの長い間、中心的存在として活躍し、数々のタイトルや記録をだしていくのです。
2001~2020年ガンバ大阪 不動の7番
2001年ガンバ大阪に移籍した遠藤保仁は、20年以上在籍し中心的選手として活躍し続けています。移籍時は年俸3,000万円。2005年にクラブ初となるJ1リーグ制覇に貢献し、2008年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝も達成。2009年には年俸1億円越えとなりました。クラブに数多くのタイトルをもたらし、ガンバ大阪のレジェンド的存在となったのです。
個人的記録も多く、中でもJ1通算出場試合数歴代最多記録は単独トップです。ほとんど休みなくピッチに立ち続けていたことになります。さりげないプレーの中から繰り出す鋭いパスが持ち味で、司令塔であるがゆえに一見運動量が少なく見えがちですが、すごいスタミナの持ち主であることが出場試合数からもわかります。年俸最高額は2015年の1億8,000万円。
昨季はやや出番が減少し、試合にたくさん出たい!という遠藤保仁の想いとチームとしての方針の少しずつのずれが重なり、年俸1億円で2020年ジュビロ磐田へのレンタル移籍という形をとることになったのです。移籍発表時には「長年お世話になったガンバ大阪には感謝しており、新しいチャレンジを楽しみたい」という実に遠藤保仁らしいコメントを出しています。
2020年~新天地ジュビロ磐田
数々の歴代タイトルと記録を打ち立ててきた遠藤保仁は、2020年ジュビロ磐田へ2021年1月31日期限での移籍となりました。その後1年期限延長となり、現在の年俸は1億円です。通算出場試合数最多の記録を持つ遠藤保仁は、試合に出たい、勝ちたい、サッカーを楽しみたいという気持ちを常に持ち続けているのです。
そのモットーを貫く形となった今回の移籍は大変な決断であり、周囲の反響も大きいものでした。しかしながら、長年在籍し愛着あるガンバ大阪に感謝する気持ちを大いに持っています。そして「ジュビロ磐田をJ1に昇格させる」という目標を持ち、「レギュラー争いを楽しみたい」と公言し、常にポジティブな遠藤保仁らしい展開となっているのです。
左右の足関係なく自分の思い通りのキックができ、見方が受けやすいパスを供給します。ピッチ上で慌てている姿はみたことがなく、常に冷静沈着、一つ一つのパスにメッセージを込めながら攻撃を組み立てる、そんな遠藤保仁のサッカーが今後も見られます。
(サッカーについては以下の記事も参考にしてみてください)