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伝説ボディビルダー『小沼敏雄』の現在は?生い立ち〜筋トレ&食事への考えまで紹介

2021年04月19日

伝説のボディビルダー小沼敏雄を特集します。生い立ち~筋トレ、食事への考えなど現在ゴールドジムのパーソナルトレーナーとして活躍する小沼敏雄の思想を確認しましょう。また、現在の手術、アパート暮らしの噂も検証!足筋トレやベンチプレスの画像も満載でお送りします。


小沼敏雄は大学の時に就職活動をし、内定をもらっています。しかし留年してしまったため内定が取り消しになってしまいました。そこからはアルバイト生活を始めます。日給はかなり良かったのですが、戸外のハードな肉体労働のバイトでした。どんどんと人が辞めていく中、小沼敏雄はこのバイトをつづけます。

このバイトはトレーニングの支障になるどころか、筋力もアップしつつ日焼けもできるので一石二鳥だと思っていたそうです。

トレーナーとして

そんな中、小沼敏雄が大学時代から通い始めた田端のトレーニングアカデミーが閉鎖されます。その際、西日暮里に「ワールドトレーニングセンターというジムを新設するからジムのコーチをしてみないか」と瀧元信男オーナー(現・東京都連盟顧問)から誘われました。

このとき、小沼敏雄はもちろん留年中でしたが、取得する単位は少なかったため、コーチの仕事に重心を置いた生活をすることができていたと語っています。

ミスター初優勝

小沼敏雄は22歳の時(留年中でした)に結婚をします。お金もなかったので田端の古い風呂なしアパートに住んでいました。その結婚の2年後にミスター日本で初優勝を果たします。減量食を作るなど、奥さんの手助けがあってのものだと小沼敏雄も語っていました。

中野ヘルスクラブ

出典:https://ameblo.jp/itrnt/entry-12576152301.html

結婚後もワールドトレーニングセンターでアルバイトをしていた小沼敏雄ですが、事情で辞めることになります。その際、中野ヘルスクラブのコーチだった鶴田和一から声をかけられて入社します。この時小沼敏雄はアルバイトという立場ではなく初めて正社員という立場でトレーナー業務に携わることができました。

この中野ヘルスクラブでは閉館の2003年まで、19年間コーチとして勤務しています。この期間にミスター日本13連覇を果たしていました。

世界一を目指す

ミスター日本では13連覇という偉業を成し遂げていたため、「ミスター日本に出場しなくても良いのでは?」「後進に譲っては?」という意見もありました。しかし小沼敏雄がこの時目指していたのは世界一になることです。ミスター日本に出続けるのは連覇回数を増やすためではなく、世界を目指すためでした。

アジア選手権では1988年、89年の連続優勝を果たしましたが、世界では7位~9位のあたりの成績にとどまっていました。途中でミドル級でのエントリーに限界を感じた小沼敏雄はライトヘビー級に上げます。予選通過はなりませんでしたが、上を目指す意識が長期間ボディビルダーとして活躍するためには大事だったのではないかと小沼敏雄は振り返っていました。

主な大会成績

・1983年 ミスター日本 2位
・1984年 ミスター日本 2位
・1985年 ミスター日本 優勝
・1987年~1999年 ミスター日本 優勝
・1988年 アジアボディビルディング選手権(90kg以下級) 優勝
・1989年 アジアボディビルディング選手権(85kg以下級) 優勝
・2002年 ミスターユニバース(40歳の部 80kg級) 優勝

1985年のミスター日本で優勝してから1999年まで驚異の13連覇を果たしています。初優勝の翌年である1986年の記録がないのは、小沼敏雄が「優勝者は翌年の出場ができない」と思い込んでいたためです。出場していたらこの年も優勝していた可能性が高いでしょう。

現在

中野ヘルスクラブが閉館した後、ゴールドジムがオープンしました。その際、ゴールドジムの社長から提案がありトレーナーとしてゴールドジムで働くことになります。他にも「赤羽トレーニングセンターを引き継がないか?」という提案もありましたが、ジム経営と大会出場を同時に行うのは難しいと判断してゴールドジムのトレーナーになることに決めました。

そこまでして大会出場にこだわるのはやはり目標になるからだといいます。目標をもって体を鍛えるほうが楽しいと話していました、またたとえ負けても大会に出場するのは現役でありたいという思いもさることながら、結果的に「あの小沼敏雄に勝てた!」という後進がいると思うからだと語っています。

(マッスル北村の伝説については以下の記事も参考にしてみてください)

小沼敏雄の筋トレについて