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村上宗隆の中学時代について解説!
生年月日(年齢) | 2000年2月2日(22歳) |
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出身 | 熊本県熊本市 |
身長 | 188cm |
体重 | 97㎏ |
所属チーム | 九州学院高等学校→東京ヤクルトスワローズ |
ポジション | 三塁手・一塁手 |
SNS | InstagramTwitter |
通算100本塁打、シーズン100打点のNPB史上最年少記録保持者の東京ヤクルトスワローズの村上宗隆。2021年には日本代表として同じチームの山田哲人とともにオリンピックに出場、金メダルを獲得したことは記憶に新しいところです。
この記事では、そんな村上宗隆の中学時代を特集します。内野手として活躍する村上宗隆の意外なポジションや成績、当時のエピソードなど詳しく解説します。
(山田哲人の高校時代については以下の記事も参考にしてみてください)
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出典:Slope[スロープ]
村上宗隆の中学時代!ポジションが意外?
ヤクルトスワローズの主力選手として活躍する村上宗隆ですが、中学時代はどんな選手だったのでしょうか。ここからは、村上宗隆の中学時代を紹介します。
通っていたのは熊本市立長嶺中学校
小学校4年で軟式野球チーム「託麻南小野球クラブ」に入り本格的に野球を始めた村上宗孝。6年で硬式野球チーム「熊本東リトルシニア」に入団。熊本市立長嶺中学校に進学しました。
所属していたのは熊本東リトルシニア
中学時代所属していた「熊本東リトルジュニア」は、全国選抜野球大会に出場するほどの強豪チーム。卒団生は、強豪高校へ進学するものも多かったようです。
ポジションやプレーの成績は?
中学時代のポジションは、セカンド。九州学院高校に進学してすぐの村上宗隆を見た当時の監督は「体は大きいのに力任せじゃない。バッティングにクセがない。バットの振り出しがスムーズで頭が股間の上で動かない軸回転のスイング」と思ったそう。加えて中学時代のプレーを見てなかった監督でしたが、初めて見た時にはプロに行くなと感じたと語っています。
入学時は細身でうまくバットに当てる選手という印象が強かったとも語っており、それが理由で中学時代セカンドを守っていたのではないかと考えられます。中学時代の成績について詳細な情報はありませんでしたが、中学2年の時には九州選抜チームに選出され台湾に遠征に行っています。
後にプロ野球界入りをした、増田珠や小学校時代からのライバルであった西浦颯大とはこの時に同じチームメイトになったそうです。
村上宗隆の学生時代のものと思われるTwitterが発見される
村上宗隆は現在公式のTwitterを行っていますが、中学時代の本人のものと思われるTwitterが発見されたことで話題にもなりました。熊本東リトルシニアキャプテンとプロフィールにも書かれていますので本人のもので間違いないかと思われます。
2014年からツイートもされていませんので、高校に入る前で終了しているのではないかと考えます。気になるかたはチェックしてみてください。
(柳田悠岐の高校時代については以下の記事も参考にしてみてください)
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出典: Slope[スロープ]
村上宗隆の中学・少年時代のエピソード!
ここからは、村上宗隆の幼少時代から中学時代までのエピソードを紹介します。少年時代はどのような子供だたのでしょうか。家族との関係にも注目です。
3歳でプラスチックバットを握り野球を始める
父は元球児、母はバレーボール選手、そんなスポーツ万能の両親の元に生まれた宗隆。幼稚園に入園する頃には自宅でプラスチックのバッドを振って遊んでいたと言います。当時、プロ野球界で活躍していたイチローや松井秀喜を真似たのか、右利きであったにも関わらず左で打っていたと言います。
4歳のころ、兄と一緒に長嶺地域スポーツクラブに入団しますが、キャッチボールのボールを取り損ねて鼻血を出したことから練習に行くのを嫌がっていたと言います。父は「男ならやると決めたことは最後までやり通せ」と𠮟咤激励したそうです。
家に帰るとひたすら素振り
そんな村上宗隆も小学校4年生の時から本格的に野球に没頭し、6年生で硬式野球チーム「熊本東リトルシニア」に入ります。父は高橋由伸が少年時代にやっていたと耳にした2メートルの物干し竿で素振りをやらせたこともあったそうです。
父はティー打撃ではなく素振りにこだわりました。ある日、村上は試合を終えて帰宅するとバットを振り始めたと言います。何が彼をそうさせたのかはいまだ不明のようですが、それはいつしか日課になっていきます。
父は「10本でもいいから納得するまで振りなさい」と声をかけていましたが、納得がいかなければ延々と振っていたと言います。
シニア時代の監督から「引っ張り禁止令」が出る
熊本東リトルシニア時代の村上宗隆はとにかく飛ばす選手であったそう。使用していたグランドは右翼85mでしたがその後ろの民家に打撃が直撃したというエピソードもあるほど。ネットを地上13~14mまで高くしてもネットを超えていく「なるべく左中間方向に打て」と指導しても約110m後方の小屋に当たってしまったと言います。
近隣の民家を守るため、村上宗隆には「引っ張り禁止令」が出されます。左方向へかっ飛ばす練習を繰り返し、遊撃手のはるか上に向かって左中間に飛ばす。引っ張るだけではない逆方向へのアーチがのちに村上の個性となるのです。
父親が厳しく指導し野球人生の礎を築く
自身も球児だった父ですが、右肩を手術して野球を諦めた過去があります。そのことで、子供たちには半ば無理やり野球をやらせていたこともあったと語っています。「三振でも内野ゴロでもアウトはアウト。どうせアウトになるならめいっぱい振りなさい」父が宗隆によく言っていた言葉だと言います。
幼少期は厳しく指導していた父ですが、中学にはいったら息子たちの人生という考えで野球に関して強制はしなかったそうです。しかし「頑張りたいなら頑張れ、努力だけは怠るな」というスタンスで接しており、陰ながら見守っていたようです。
厳しくとも野球人生の礎を築いてくれた父。3人の息子は現在でも野球を続けています。
(佐藤輝明の父については以下の記事も参考にしてみてください)
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村上宗隆の高校時代は?
九州学院高等学校に進学した村上宗隆は、1年から一塁手のレギュラーを獲得。夏の熊本大会で優勝し甲子園に出場しています。甲子園では、4番打者として出場しますが、石川県の遊学館高等学校に初戦で敗退しました。村上自身も甲子園無安打で終わっています。
1年の秋からは、ポジションを捕手に変更。2年・3年と熊本大会決勝までは進みましたが、ともに秀岳館に敗退し甲子園に出場できませんでした。村上自身、甲子園に出場したのは1年の夏1回だけでしたが、高校通算52本塁打を記録。並外れた長打力は「肥後のベーブルース」と呼ばれプロのスカウトにも注目される存在となりました。
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村上宗隆は中学時代から凄かった!
ヤクルトスワローズの村上宗隆について紹介しましたがいかがでしたでしょうか。中学時代から活躍していた村上宗隆。甲子園では成績を残すことはできませんでしたがその実力がプロの目に留まり入団。プロ野球界を代表する選手として成長しました。今後も村上宗隆の活躍に期待しましょう!