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山田哲人の高校時代!成績・評価・ポジションは?甲子園出場・ドラフト〜バット・年俸までも!

2022年02月09日

ミスタートリプルスリーの愛称でおなじみのヤクルトスワローズの山田哲人。この記事では主に山田哲人の高校時代を特集。甲子園での成績や評価やポジション・ドラフト・実家まで詳しく紹介。併せて高校時代愛用のバッドやプロ野球での年俸も紹介します。


山田哲人のプロフィール!高校時代の経歴は?

出典:https://www.pinterest.jp/pin/810155420463557286/
生年月日(年齢)1992年7月16日(29歳)
出身兵庫県豊岡市
身長180cm
体重76㎏
所属チーム 履正社高等学校→東京ヤクルトスワローズ
ポジション 二塁手
SNSInstagram

NPBにおいて、日本人右打者シーズン最多安打記録、史上初の本塁打王と盗塁王の同時獲得者、日本プロ野球史上、唯一のトリプルスリー3回達成者、平成生まれプロ野球選手初の最多本塁打など数々の記録を残している、ミスタートリプルスリーこと東京ヤクルトスワローズの山田哲人。

兵庫県豊岡市で生まれた山田哲人は、幼いころから空手やサッカーをしており運動神経は抜群。警察官の父の転勤で宝塚市に転居すると小学2年生の時に宝塚リトルリーグで外野手として野球を始めます。中学時代はヤングリーグ・兵庫伊丹に所属、ポジションは内野手でした。

履正社高等学校に進学し、1年夏からベンチ入り、2年夏には、二塁手でレギュラー獲得。3年の最後の夏に甲子園出場するも3回戦で敗退します。そんな山田哲人も、高校2年まではプロ野球に行けるような選手ではなかったと言います。この記事では、山田哲人の高校時代を大特集します。どうして山田哲人がプロ野球の道へ進めたのかなど深堀していきましょう。

(山田哲人の筋肉については以下の記事も参考にしてみてください)

山田哲人の高校時代!ポジション・成績・評価は?

出典:https://twitter.com/hidemaru_bb7g/status/668735048405807104

山田哲人は高校時代そのような選手だったのでしょうか。ここからは、山田哲人の高校時代について詳しくみていきましょう。

強豪・履正社高校へ入学

「小学校・中学校の時はプロに行けるとは思っていなかった」と語る山田哲人は、大阪の強豪・履正社高等学校に進学します。後ほど、紹介しますが実は第一希望は同じく甲子園常連校、大阪桐蔭高校だったそうです。履正社高等学校に進学すると同時、家族は山田哲人のために大阪府豊中市に引っ越しました。

1年生の時から出場機会を得る

履正社高等学校野球部に入部した山田哲人。その実力がかわれ1年の夏からベンチ入りをします。練習態度は真面目、チームメイトとの関係性もよく、足を引っ張ったり空気を乱したりするような選手ではなかったといいます。

2年生では主力として県ベスト4に貢献

高校2年生の夏には二塁手でレギュラーを獲得、チームにとっても主力選手となります。しかし、当時は、努力することもなく、将来は野球で飯を食っていくというような想いを持っているような選手ではなかったというのが山田哲人を知る人の共通認識だったようです。

山田哲人の恩師である岡田監督もまた「もっと真剣に野球に取り組めば才能が開花するのにもったいない」と感じていたそうです。

2年生の秋の敗戦を機に意識が変化

そんな山田哲人の野球人生を一変させたのが、高校2年生の大阪府大会でした。準々決勝でPL学園戦で敗退し翌春の選抜出場権を逃したのです。この試合は7回まで3-3の同点でした。しかし8回、山田哲人の守備のミスから失点し、試合終盤のチャンスでも山田哲人が凡退してしまったのです。

「山田のせいで負けた」とは誰も思わなかった試合。しかし山田だけは違ったのです。のちに「どうでもいい試合では打てるのに、相手がPLとか大事な試合になると結果が出ない。“ココイチ”弱いなと、それを痛感させられた」と語っています。ここから、意識が変わった山田哲人は「努力」をするようになるのです。

3年生では攻守で大爆発

「あれ、ほんまに山田か?」と監督やスタッフも上段を交わすほど、山田哲人は変化したのです。「努力」することに気付いた山田哲人にもう怖いものはありませんでした。3年の春には見違えるように成長し、高い守備力と打率.435という成績でチームを牽引。大阪大会優勝・近畿大会で準優勝。

この頃から少しづつプロのスカウトからも注目されるようになります。そしていよいよ初の甲子園に出場します。

3年の夏に甲子園出場

甲子園では2回戦から登場。中村奨吾擁する天理高校戦で本盗を決め、履正社の夏初勝利に貢献したのです。続く3回戦は聖光学院高校と対戦。歳内宏明から本塁打を打つもチームは敗退し、山田哲人の夏は終わりました。

ドラフト1位でヤクルトに入団

2010年プロ野球ドラフト会議では、東京ヤクルトスワローズとオリックスバファローズから外れ外れ1巡名指名を受けヤクルトが交渉権を獲得。同年11月25日、年俸720万円で仮契約を結びました。当時、山田哲人は「ヤクルトスワローズは一番行きたい球団だった」と語っていました。

(柳田悠岐の高校時代については以下の記事も参考にしてみてください)

山田哲人の高校時代の野球エピソードを紹介!

出典:https://twitter.com/koshien_museum/status/1425266106978037762

山田哲人は高校時代、どんな選手だったのでしょうか。ここからは、山田哲人の履正社時代のエピソードをいくつか紹介していきます。

大阪桐蔭への入学を断念していた

甲子園を目指していた山田哲人。もちろん高校は甲子園に一番近い高校を希望していました。そこで選んだのが、名門・大阪桐蔭高校です。大阪桐蔭高校と言えば、中田翔や藤浪晋太郎、中村剛也など多くのプロ野球選手を輩出しています。

大阪で一番甲子園に近い高校として大阪桐蔭高校を希望した山田哲人ですが、大阪桐蔭高校の野球部部員は全員寮生活をするという決まりがありました。もちろん自宅から通学できる生徒もです。寮生活をしなければならないことを心配した母親が進学に反対したと言います。そこで、同じく野球の名門・履正社高等学校に進学を決めたそうです。

高校進学とともに家族で引っ越し

山田哲人の父は警察官で武術で全国制覇するほどの実力の持ち主でした。同じく母もまたテニスをやっていたことがあり両親そろって運動神経抜群。山田哲人はそんな両親のDNAを受け継いでいるのかもしれません。そんな母は「褒める教育」で子供を育てたそう。いつも子供のことを考えているような母ですから桐蔭高校で寮生活をすることには心配だったのかもしれません。

そんな、山田哲人の家族は哲人が履正社高等学校に進学すると同時、兵庫県豊岡市から履正社高校がある大阪府豊中市に引っ越したそうです。しっかりと子供を自分たちでサポートするという両親の覚悟が見られる決断ですね。

高校2年生まではあまりやる気がなかった

履正社高等学校野球部といれば、プロのスカウトやメディアの注目度も高い。しかし、高校2年生の秋から翌年の春までは山田哲人の評価は二分していたといいます。素材は誰もが認めていましたがインパクトに欠けており山田哲人自身も「将来野球で飯を食っていく」という覚悟はなかったと言います。

「ええ素材を持っているのにもったいない選手やなって、僕だけではなくてコーチたちといつも話題にしていました。もっと真剣に取り組んだら、持っている才能が開花するのにと思っていました。モチベーションを高めようと色々したんですけどね、山田には響かなかった。そんな程度の取り組む姿勢なんやったら、公立の学校でやりゃええのにと思うくらいでした」

引用元:https://number.bunshun.jp/articles/-/843194

山田哲人の恩師である履正社の岡田監督もこのように話していたくらい、才能はあるのにやる気は感じられなかったそうです。その意識が劇的に変化したのは、あの2年生の秋の大阪府大会準々決勝PL戦。あれがなければ今の山田哲人はいないであろう出来事でした。

甲子園唯一のホームラン

2010年大阪大会を13年ぶりに制して甲子園に出場した履正社。3回戦は、現阪神タイガースの歳内宏明擁する聖光学院戦。6回裏カウントは1-1、捕手はアウトコースを要求したが完全な逆球のインハイだった。普通なら見逃すところだが山田哲人は瞬時に反応し見事な軸回転でレストスタンドへと本塁打を放ったがチームは敗退。

この技あり本塁打は山田哲人にとって唯一の本塁打となってしまったが、この1本で「文句なしのドラフト1位候補」となりました。

履正社のスラッガーとして注目され阪神タイガースに入団した井上広大は「あのホームランを見て、履正社に行きたいと思ったんです」と語っているように、さまざまな人の記憶に残る1本であったことは間違いないでしょう。

成長率ナンバー1

「氷山の一角という言葉がありますけど、少しだけ頭を出しているけど、その下にどれだけのものが埋もれているのかは分からない。しかし、意欲を持ったことでそれが一気に見えるところに浮上することがある。nn 山田の成長スピードはホンマにすごい勢いでした。あれだけの伸びを示した高校生を見たことがありません」

引用元:https://number.bunshun.jp/articles/-/843194?page=3

「才能はあるのに覚悟がない」「どこにでもいそうなショート」「いつかはプロに行ける選手かもしれないな」高校時代は監督やスタッフ、取材陣にもそんな印象だった山田哲人。高校2年秋のPL戦で意識が変わるとそこからは猛スピードで駆け上がり春にはスカウトの評価も変化しはじめ、最後の夏の甲子園で高校野球ドラフト注目選手にまでに評価があがりました。

甲子園では小中学校時代から同地区で有名だったロッテの中村奨吾率いる天理に勝利。山田哲人の高校入学当時から近畿地区の評判選手だった日本ハムの西川遥輝よりも先にドラフト会議では名前を読み上げられるほど、急成長したのでした。

(佐藤輝明の高校時代については以下の記事も参考にしてみてください)

山田哲人が高校時代に使用していたバットは?

出典:https://zettshop.net/itemdetail/z/bat12184–1900

高校時代の山田哲人は「ZETT」のバットを使用していたようです。山田哲人は高校3年になることには高校の先輩であるT-岡田の高校時代を上回る154キロを計測するなどバットスイングの速さが特徴の選手。

どのモデルを使用していたのかは不明ですが、「ZETT」には、高速スイングに対応するものなど選手のタイプによって適したモデルがありますので山田哲人も自身の特徴に適したタイプを使っていたと考えられます。

ちなみに、履正社高校では、大学やプロに進んだあとすぐに木製バットに対応できるよう、通常の練習で木製バットを使っているようです。山田哲人の時代も木製バットで練習していた可能性もあります。

高校時代に活躍の山田哲人はプロでも大活躍!年俸は?

出典:https://www.pinterest.jp/pin/603271312555673860/
年度年俸(推定)チーム名
2011年720万円東京ヤクルトスワローズ
2012年800万円東京ヤクルトスワローズ
2013年1000万円東京ヤクルトスワローズ
2014年2200万円東京ヤクルトスワローズ
2015年8000万円東京ヤクルトスワローズ
2016年2億2000万円東京ヤクルトスワローズ
2017年3億5000万円東京ヤクルトスワローズ
2018年2億8000万円東京ヤクルトスワローズ
2019年4億3000万円東京ヤクルトスワローズ
2020年5億円東京ヤクルトスワローズ
2021年5億円東京ヤクルトスワローズ
2022年5億円東京ヤクルトスワローズ

2011年、年俸720万円で入団した山田哲人。2014年には自身初の月間MVPを受賞、オフには日本代表に選出されます。2015年には、プロ野球史上9人目のトリプルスリーを達成、セリーグ野手初の月間MVP3か月連続で受賞。本塁打王・盗塁王・最高出塁率の打撃大老を獲得し優勝に導きました。。トリプルスリーと盗塁王の同時獲得は史上初となり、自身も2016年は初の2億2000万円で更改。

その後の活躍はご存知の通り、トリプルスリーは3度獲得、2019年には通算200号本塁打に到達。2020年には5億円突破、青木宣親に代わりキャプテンも務めています。2021年東京オリンピックには全試合1番打者tして出場、金メダル獲得に貢献しました。

(同じく金メダリストの坂本勇人の年俸については以下の記事も参考にしてみてください)

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出典:https://www.pinterest.jp/pin/712272497310769392/

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山田哲人は高校時代もチームの中心として大活躍!

出典:https://www.pinterest.jp/pin/840695455430462559/

山田哲人の高校時代について紹介しましたがいかがでしたでしょうか。高校2年の秋に意識が変わったことでプロ入りできたといっても過言ではありませんね。高校時代もプロ野球界でもチームの中心として大活躍の山田哲人の今後も注目しましょう!